“謙虚の話し”(NEW)

世の中では謙虚な人は尊敬されているようです。傲慢より謙虚がいいですよね?一つ私の知っている謙虚イコール自我の場合の話をします。

“謙虚”は結果”謙虚”であったが本当なのではないでしょうか?人に嫌われたくないから謙虚でいるのは自我ですよね〜!こうなったら自分像を崩したくない意識が働きます。

 あるとても謙虚な人がいます。その人は周りの人から尊敬されていました。こんなに地位も名誉もあるのになんて謙虚な人なんだと。はじめその人は謙虚をしていたのではなく結果的に彼女の言動が謙虚さとなっていました。ある時彼女はふっと思いました。本当はこう言った方がいいけど言わない方が謙虚だよねって。

 それで彼女は言うべきことを言わず無難に謙虚をしました。こう言うことが度重なってくると彼女に意識に“謙虚”イコール“尊敬される”が生まれました。彼女の自然の言動が結果的に謙虚ではなく彼女の中には意識的に“謙虚をする”ことが多くなりました。彼女は自分の評価を下げたくなく、いつも尊敬される人でありたかったのです。

 ある時彼女はふと気づきます、“何か変だ”って。そして彼女は自分のやってきたことは“謙虚”ではなく“こう思われたい”の自我だと気づきました。その時から彼女は謙虚をすることをやめました。そして素直によくないことはそのように相手に伝えることにしました。その結果“謙虚”で尊敬されていた彼女は本当に相手に大切な助言ができるもっと尊敬される人になりました。

以前“林文子さんと息子さんの話し”そ紹介させていただきました。下の箇所を覚えていますか? 

💁‍高校の入学試験に作文がありました。課題は、当日に発表されます。試験が終わり、課題ってなんだった?と聞くと「思いやりの大切さ」だったと。続けて、「オレ、思いやりが大切だって思ってしたことないから、なんて書けばいいかわからなかった」と言いました。今までの息子をみてきて、思いやりが大切だから思いやるということではなくて、彼が本心からそうしたいと思ってしたことが思いやりになっていることを私は知っています。

この話しの思いやりをそっくり謙虚に変えて読んでみてください。私は彼を知っているので、きっと他のことでも自分が本心からそう思ったことが結果的に“思いやり”であったり“謙虚さ”であったりしているのだと思います。自分がこう思われたい!の言動とあるがままを受け入れての言動とは大きく異なります。どうせ謙虚をするなら真の謙虚をしませんか?